加藤明の家族(嫁・子供) ペルー・バレー界英雄の死因とは?(世界ナゼそこに日本人)

スゴイ人




 

 

世界ナゼそこに日本人にペルー・バレー界英雄である加藤明がとりあげられます。

 

元バレーボール選手だがペルーの英雄となった加藤明の家族である嫁(妻)子供はどのようなかたなのでしょうか。

 

さらに49歳という年齢で息を引き取った加藤明の死因とはどのようなものだったのでしょう。

 

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ペルー・女子バレー界英雄 加藤明の伝説

南米ペルーというのは日本から約1万5千キロも離れた地域になるのです。

 

はなぜ加藤明は、こんなにも日本とかけ離れた異国の地で、こんなにも愛されたのか。

 

加藤明が生まれたのは1993年(昭和8年)にまでさかのぼります。

 

出生地としては神奈川県小田原市であったということです。

 

幼少期から非常に活発なタイプだったのではないかと考えられます。

 

このことから8歳の頃というのはローラースケートで遊ぶことも多かったそうです。

 

そんなある日加藤明に災難が降りかかります。

 

腕を骨折してしまったのです。

 

ポジティブとネガティブはセットなどとも言われますが、この骨折のリハビリとしてバレーボールに取り組む事となったということでしょう。

 

このリハビリを機に加藤明はバレーボールにはまっていったという経緯があります。

 

中学校、高校とバレー漬けの日々を送ったというのです。

 

大学は慶応義塾大学法学部に進学したことからバレーボール一筋で取り組んだことから、その名は全国へはばたくこととなったのです。

 

1955年には実業団の名門であるといわれる「八幡製鉄」に入社ということになる。

 

1960年になれば八幡製鉄の主将になったのです。

 

その年になんと世界選手権に出場したという経緯を持っています。

 

日本代表にも選ばれた経緯がありながら世界選手権に出場した後に現役を引退したのです。

 

惜しまれる引退であった。

 

引退後の1961年にいたっては、母校の慶応義塾大学の監督に就任します。

 

2部リーグで低迷していた慶応だったが加藤明の導きにより1964年の全日本大学選手権では優勝することとなった。

 

選手としても一流であり、主将を務める程だからその人間性も素晴らしいということが言えます。

 

さらに監督としても一流であったということから、才能に満ち溢れたかただったということです。

 

このとき、日本バレー界というのは「東洋の魔女」と恐れられるほど、まさに黄金伝説を気づき上げた時代だったということです。

 

このとき南米ペルーはその実力というのはかなり低いものだった。

 

ペルー政府は指導者を探していたほどだったが、このとき知らせが届いたのが加藤明だったということになるのです。

 

1968年に開催されたメキシコ五輪に初出場し惜しくもメダルには届かなかったものの

4位入賞を果たした。

 

主催国のメキシコ、韓国、アメリカを破っての快挙だったのです。

 

これが「野蛮な監督」が「ペルーの英雄」という伝説に変わった瞬間だったのです。

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ペルー・女子バレー界英雄 加藤明の家族(嫁・子供)

加藤明には典子さんという嫁がいた。

 

いっぱんのかたであるということから多くの情報はみあたらないということになっています。

 

子供などの情報はないもののバレー代表の監督ともなるとなかなか家族をかばっている暇もないような毎日であったのではないでしょうか。

 

ペルーでは、子供に「Akira」と名づける家庭がかなりの割合で増えていったということもあるそうです。

 

加藤は「東洋の魔女」の練習風景などのフィルムを現地の選手に実際に見せたといいます。

 

そして厳しい環境に身を置くということを整備しペルーで実践したところ、あまりにも厳しないようだったということで多くの選手が逃げ出した。

 

金メダリストの日本代表の練習というのはそれほどまでに厳しかったということになるでしょう。

 

このことから当初の加藤明は

 

「野蛮な国から来た野蛮な監督」

 

としてその名をしられることになった。

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ペルー・女子バレー界英雄 加藤明の死因とは?

南米ぺるにーにて加藤明が亡くなったとされているのが1982(昭和52年)年3月20日のことです。

 

国民的英雄として知られた加藤あきら死はというのはペルー国民に大きな衝撃を与えた出来事だったともいえるでしょう。

 

現地の新聞に大々的に取り上げられたことと、儀式には5万人ものペルー人が参列したということなのです。

 

加藤は目標を掲げていた

 

「世界最強の日本チームに勝つこと」

 

加藤明は本気だったのです。

 

その証として、加藤明は代表監督を続けるために会社を辞めてペルー永住を心に決めたのだ。

 

このとき加藤を襲ったのがウイルス性急性肝炎という病だった。

 

しかし、その加藤を突然病が襲います。

 

このため、加藤明は監督を辞任する流れとなったのだ。

 

このため10年以上も闘病生活を送ることとなってしまったのだ。

 

1982年というのは女子バレー世界選手権がペルーで始めて開催されることなったとしでもあった。

 

この時の加藤明の病気であるウイルス性肝炎の症状は悪化の一途をたどりすでに体は限界の状態をさまよっていたといえるのだ。

 

加藤明は同年3月20日49歳の若さで息を引き取った。

 

 

サッカーの国内リーグが開催されていたリマのスタジアムに

 

「アキラ・カトウ死す」

 

ということが伝えられたといいます。

 

盛り上がっていたスタジアム中は涙する声に包まれた。

 

新聞各誌は最大級の哀悼の意を示した

 

「ペルーは泣いている」

 

このような見出しがペルー新聞各紙に刻まれたのだ。

 

首都のリマにいたっては、教会の鐘が打ち鳴らされていたといいます。

 

弔意を表す車のクラクションが一晩中鳴り止まらなかったということでしょう。スポンサードリンク

ペルー・女子バレー界英雄 加藤明とペルー

ベラウンデ大統領が弔辞をよせたという加藤明の儀式。

 

選手である参列した加藤の教え子たちは、かつて共に一緒に歌った坂本九の「上を向いて歩こう」を、加藤に向けて合唱した。

 

この後ペルー女子は快挙を成し遂げる。

 

女子バレー世界選手権で、以前に大敗した日本と対戦したペルーは、なんと日本から初勝利を飾ったといいます。

 

加藤の死から半年後に加藤明の夢が叶った瞬間だったといえるでしょう。

 

銀メダルという快挙を達成し、ペルーは日本を破り準優勝を果たした。

 

客席から「アキラ・カトウ」の大声援が鳴り響いたことはいうまでもありませんね。

 

加藤明のの墓というのは歴代大統領と並んで建てられています。

 

さらにペルー大使公邸の緑地帯には、加藤の記念碑も建てられていることでも知られています。

 

アキラ・カトウ、小・中学校というものもあるほどなのです。

 

このようなことから、彼の命日には今でも献花に訪れる人が後を絶たないのです。

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まとめ

才能のある選手を次々とスカウトして育てるという姿勢。

 

精神面や生活面も選手たちに指導するというまめな部分。

 

戦争で土化した日本が「夢と希望」を失わずにここまできたのは日本人の「努力」と「礼節」あってこそ

 

加藤の考えは選手に順次とどいたものでしょう。

 

練習後は、選手たちと食卓を囲み「スキヤキ」を振る舞ったりしたこともあるという。

 

得意のギターを弾いたりして、坂本九氏の「上を向いて歩こう」一緒に歌うというような愛情。

 

加藤明は日本が誇るべき存在と言えるでしょう。

 

最後までお読みいただきありがとうございました!

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